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2016年02月26日

3月12日講演 「人の記憶 地の記憶 地震伝承を読む」 静岡市 くればにて

 3月12日14時より静岡市のシニアライフ支援センター「くれば」にて講演致します。

 内容は「人の記憶 地の記憶 地震伝承を読む」です。





 日本列島に住んでいる限り、一生のうちに一度は巨大地震に遭遇すると言われている。
 しかし、度重なる学者の警告にも関わらず「地震なんて来なければわからない」という認識が大抵である。それは想定される被害が単なる数字だからではないだろうか。
 今回は歴史に刻まれた巨大地震を体験した人の日記や伝承から、巨大地震に遭った人の感情や、土地に刻まれた先人たちの思いを掬って行きます。

 「歴史地震・東海地震・災害史・民俗学」
などに関心がある方にオススメです。

 会費:500円

 開催場所はコチラ・静岡市両替町2丁目3-6大原ビル1F シニアライフ支援センター「くれば」
 


 参加は自由です。直接、来場してください。問い合わせはコチラから。054(252)8018
 もしくはオーナーメールで直接お願いします。


 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました
  


Posted by かるの at 22:28Comments(0)歴史発見講座

2016年02月25日

2月24日講演 「幕府流転 天下相食む下剋上」について参考文献

2月24日、沼津市の高嶋酒造にて「幕府流転 天下相食む下剋上」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 

 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「戦国期室町幕府と将軍/山田康弘」

 「戦国三好一族/今谷明」
 
 「関東戦国史(全)/千野原靖方」
 
 「続中世東国の支配構造/佐藤博信 」

 「戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦/福島克彦」

 「織田信長合戦全録 - 桶狭間から本能寺まで/谷口克広 」
 


ご参考にして下さい。


※次回の高嶋酒造での講座は3月30日18時半~、「人の記憶 地の記憶 地震伝承を読む」と題し、過去の巨大地震を記録した日記や歴史的影響について歴史の観点からお話しします。  


Posted by かるの at 17:17Comments(0)歴史発見講座

2016年02月24日

本日講演 「幕府流転 天下相食む下剋上」 沼津市 高嶋酒造にて

 本日18時半より講演致します。

 内容は「幕府流転 天下相食む下剋上」です。


(足利将軍を凌ぐ権力を手にした三好長慶)


 室町時代末期、足利将軍の権威は失墜し、将軍ですらそれまでの部下に幕府を追い出される有様であった。それでも力を取り戻そうと、策を巡らし自ら戦場に赴く者も居た。
 華々しい戦国大名の活躍の陰で衰退しつつも、戦国時代の鍵を握っていた足利将軍の末期と、「天下人」と呼ばれる者たちの動向を語ります。

 「室町時代後期・下剋上・戦国時代・足利将軍・天下人に関心がある方におすすめ。」

 参加費:700円。


 開催場所はコチラ・沼津市原の高嶋酒造にて


 ※駐車場がありません。公共交通機関での来場をお願いします。(JR原駅から徒歩5分)

 ※自由参加ですが、問い合わせ等は高嶋酒造へメールでお願いします。「info★hakuinmasamune.com」(★を@に換えて下さい。)
 

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 16:18Comments(0)歴史発見講座

2016年02月21日

3月5日講演 「日本再起動 室町ルネサンス」 三島市 カフェうーるーにて

3月5日9時半から三島市のカフェうーるーにて行います。
 内容は「日本再起動 室町ルネサンス」です。



 室町三代将軍・足利義満が亡くなると、その強大な権力の喪失はあらゆる矛盾を噴出させ、幕府は急速に衰えていく。幕府は権威を取り戻そうと足掻く一方で、その権威に頼らず新たな時代を切り拓こうとしていた者たちが居た。
 室町時代中期における経緯と、その中で生まれた今の日本に通じる文化についてお話しします。

 「室町時代・下剋上・社会学・一揆・戦国時代に関心がある方におすすめ。」

 会費:500円+ワンドリンクオーダー

 時間:9時半から11時半予定

 開催場所はコチラ・カフェうーるー(三島市南本町13-30 ☎055-981-5539)

 参加の申し込み不要。
 問い合わせはオーナーメール、もしくはうーるーさんへお願いします。

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 23:16Comments(0)歴史発見講座

2016年02月18日

3月1日講演 「人の記憶 地の記憶 地震伝承を読む」 沼津市 Lot.nにて 

 3月1日18時半から沼津市のLot.nにて行います。

 内容は「人の記憶 地の記憶 地震伝承を読む」です。





 日本列島に住んでいる限り、一生のうちに一度は巨大地震に遭遇すると言われている。
 しかし、度重なる学者の警告にも関わらず「地震なんて来なければわからない」という認識が大抵である。それは想定される被害が単なる数字だからではないだろうか。
 今回は歴史に刻まれた巨大地震を体験した人の日記や伝承から、巨大地震に遭った人の感情や、土地に刻まれた先人たちの思いを掬って行きます。

 「歴史地震・東海地震・災害史・民俗学」
などに関心がある方にオススメです。
 会費:1000円(ドリンク付き)

 時間:18時半から

 開催場所はコチラ・沼津市上土町10 (それまでの店舗の道向かいです

)  

 ※駐車場がありません。公共交通機関か近隣の駐車場をお使い下さい。

 参加は自由です。Lot.nさんへ直接来場ください。
 変更や中止の問い合わせ、申し込みはオーナーメール、もしくはLot.nさんへお問い合わせください
 

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 21:35Comments(0)歴史発見講座

2016年02月17日

長篠城・設楽原古戦場探訪

 ※写真のみはコチラ

 沼津史談会による長篠城・設楽原古戦場へのバスツアーに参加しました。非常に人気だったようでバスは補助席もほぼ満席でした。
 参加した史談会の皆さんはもちろん、解説に当った平山優さん、沼津市文化財センターの方、バスの中でご紹介があった、三河武士を題材とする漫画家のすずき孔さんなどもいらっしゃいました。

 バスは沼津駅前から新東名に入り、一路長篠へ二時間半。新東名が出来たおかげで奥三河もほぼ直結状態となりました。所々で雨があり、現地の天候が心配でしたが、愛知県に入った頃には青空が見えるほどの晴天になりました。

 長篠城に到着。




 長篠城は、信濃・三河・遠州の入り口と言える奥三河地域の交通の要衝の地に築かれた、二つの川と断崖絶壁に守られた天然の要塞。特に1575年の長篠の戦いの前哨戦と言える長篠城を巡る激しい攻防戦で知られる。
 はじめ、今川氏に誼を通じた在地の菅沼氏が築城。その後、今川氏の衰退と共に徳川家康に服属するようになる。
 1571年、武田信玄による三河侵攻により武田方となるも、1572年末より行われた武田軍の西上作戦中に武田信玄の病が悪化、武田軍が本国へ撤退する途中で信玄は死去する。
信玄死去の間隙を突いた徳川家康は長篠城を奪還。以後、武田軍の再侵攻に備えて城が拡張され、現在に残る城の構造はこの時のものと考えられている。
1575年6月、武田家当主となった武田勝頼が一万五千の兵を率いて長篠城を攻め囲む。それに対し、長篠城を守るのは城将・奥平貞昌以下、約五百の手勢であった・・・。

 バスを降りた駐車場は、既に本丸の真正面で、そこには見事な堀に囲まれた本丸を眺めつつ、平山氏の解説が始まりました。


城の入り口にあった「さかさ桑」

 長篠 の落武者が、民家の庭に杖をつきさした。 土地の者はその剛力を見て、ただものではないとおもい、その杖に手をふれなかった。 落武者は武田勝頼 であった。
杖からは桑の芽が出たが、下方に向かってだけ伸びるので、さかさ桑 と名付けられた、という伝説が伝わっている。  
 武田氏は「さかさ銀杏」の話もありますので、「さかさ〇〇」の話の元ネタがあるのでしょうか。

 本丸付近は多くの遺構が残っている。特に大規模な空堀と土塁が残っており、徳川家康が長篠城を奪取した後に大規模な修築を行った結果であると考えられている。










長篠城は、飯田線のために本丸と寸断されてしまったが本丸南には野牛曲輪があり、ここの遺構はよく残っている。

しかし一方で、城の北側のほとんどは埋没、破壊されている。現在は畑地や宅地などになっているが、一部に石垣の遺構を残している。

本丸から見える山の中腹に櫓状の建物が見える。長篠城を対岸の山の上から見張ったのが鳶が巣砦の跡で、長篠城の周りにはこのような砦が五つ築かれた。




林高英頌徳碑

江戸中期、長篠出身の代官であった林高英は、弓術の一派・日置流雪荷派師範としての名が高く門弟およそ七百人といわれた。
その為、弓の大会なども当地で行われているようだ。

天守台

天守台は予想していたより小さく、武田方の大軍を五百の兵で防ぐには小さすぎ、囲まれている城兵たちは非常に心細かったのではないかと。

天守台にある久邇宮良子お手植の松

大正7年3月17日、設楽原古戦場と長篠城を訪れた際の松。

天守台から望む堀


堅木植樹の碑

志賀重昴が建てた碑。碑には、鳥居強右衛門のエピソードを、アメリカのアラモ砦の話になぞらえた漢詩が刻まれている。
 志賀は拙講座で取り上げる玉置半右衛門と昵懇で、鳥島に取り残された玉置を新聞記事で世論喚起して救出に向かわせた人物として知っていましたが、ここで出てくるとは。
志賀は元々岡崎の人というのをこの碑で知りました。岡崎の人ならこのエピソードが感慨深いのも納得。

 ではここで、長篠城と鳥居強右衛門のエピソードをおさらい。
 長篠城を任されていた奥平貞昌は当時21歳の若武者。武田を裏切って徳川を頼った彼は、武田に降伏しても裏切り者としてどんな扱いになるか判らず、戦うという選択肢しかありません。
 武田の大軍に対して五百の寡兵に過ぎなかった長篠城ではあるが、二百丁の鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形と三重の堀が築かれた帯曲輪のおかげで武田軍の激しい攻撃にも何とか持ちこたえ善戦していた。それでも武田軍の攻撃は執拗で、6日に亘る通常攻撃では武田軍の死傷者も多く、勝頼は総攻撃を止め兵糧攻めに切り替えた。甲州の金堀人足による城の掘り崩しなどが行われ、更に兵糧蔵の焼失により食糧を失い、このままでは数日を以って落城必至という状況に追い詰められた。

 奥平貞昌は家康に援軍を請うべく、鳥居強右衛門を岡崎城にいる家康の下へと向かわせます。鳥居は城を抜け出して豊川を潜って武田勢が居ない対岸まで泳ぎ切った。梅雨の時期だったため川は増水して流れも速かったため、武田方の監視をかわす事が出来たのであろう。しかしそれは溺れる危険性もある決死の伝令であった。
 こうして武田軍の包囲網をかいくぐり、岡崎城までの65kmの山道を一日で駆け抜け、家康に長篠城の救援を訴える。家康も武田方の動きを察知しており、同盟者の織田信長に再三に亘って援軍を要請しており、丁度この日、織田信長の引き連れた三万の軍勢も岡崎城に到着していた。
 鳥居は落城寸前の長篠城の状況を説明、早急な出陣を乞う強右衛門に信長はゆっくりと休むように言った。しかし籠城している仲間に一刻でも早く「まもなく織田・徳川連合軍が救援に来る」ことを知らせたいと、再び長篠城へ戻っていった。
 織田・徳川連合軍3万8千の兵力は翌16日、長篠を目指して進軍を開始します。

 長篠城本丸から北側の住宅が連なる道筋の南側が弾正廓跡、道を挟んで北側の民家に家老屋敷跡がある。



 長篠城へ引き返した鳥居であったが、長篠城の目前まで来た所で武田軍に見つかって捕らえられてしまった。
武田勝頼は城兵の士気が昂まるのを恐れ、鳥居に「援軍は来ない。諦めて早く城を明け渡せ」と偽りの情報を城に伝えれば助命するとの取引を持ちかけられこれを承諾した。
長篠城の南を流れる寒狭川の河原に引き出された鳥居は、城に向かって「あと二、三日で援軍が来る。それまで頑張れ!」と大声で叫んだため、城兵は湧き上がった。

本丸から歩いて五分もしないこの辺りまで武田方が制圧していたとなると、落城寸前であった事が分かります。

更にその隣に鳥居強右衛門が城兵に叫んだという場所を巡ります。

この辺りは民家になっていて、城の面影はない。

しかし、命を賭して勝頼の命令に背いた鳥居強右衛門は、見せしめの為に逆さ磔にされ殺されてしまった。
一方、鳥居の決死の報告によって援軍が来るという情報を得ることが出来た貞昌と長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせた。
武田方の家臣・落合左平次もまた、敵方ながら鳥居強右衛門の命を賭しての忠義に感動し、磔にされている強右衛門の姿を旗指物に使うようになった。

 飯田線に分断された野牛曲輪へと向かう。
 駐車場に戻って、やや廻り込んで二の曲輪の南に飯田線のその名も古城址踏切があるのだが、警報機が無く 遮断機もないので左右を充分確認して渡ります。

 こういった踏切は初めて。

 本丸の南側には腰曲輪状の野牛曲輪がある。

 ここの野牛門から鳥居強右衛門が城を抜け出して豊川を潜って渡り、岡崎へ援軍の要請に向かっています。

 殿井と言う井戸跡があり、今も水が湧いています。

 河岸段丘の砂礫層と岩盤の境から湧き出る泉で、城兵の貴重な飲料水であった。

 野牛郭跡


 そこから川側へ降りていく。


 豊側と宇連川が合流する断崖があり、


 先端付近に櫓台跡がある。


 この先からは石造りの飯田線の橋脚が美しく川面に反射していました。


 道路の橋脚も鉄骨の構造が美しい


 戻って見学した史跡保存館では、規模は大きくないものの長篠の戦いに関する展示を中心に往時の様子、地域の色々を知ることが出来ます。周辺の散策に役立つ資料も配布されています。

史跡保存館入り口にあった鳥居強右衛門のレリーフ


 たまたま手に取った資料には、この合戦時に参加した将兵の年齢が一覧できる物があったのですが、「武田の老臣」とされる馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らが60歳前半から50代半ばという所なのですが、それ以外はどちらかというと徳川・織田方の方が平均年齢は高く、武田方は自分よりも年下が多いというのが意外でした。

 残念ながらバスの発車時間となってしまったので、じっくりは見れないのが惜しかったのですが、次の設楽原歴史資料館へと向かいます。


 設楽原歴史資料館は「長篠・設楽原の戦い」の戦況説明、火縄銃"の系統的な展示、

長篠の戦いで戦死した者たちの鎮魂の祭り「ひおんどり」に関する展示


幕末の外交官・岩瀬忠震に関する展示という所です。



 火縄銃に関する展示では日本一の数を誇るという火縄銃がこれでもかと展示されています。



日本最大級の砲


武田信玄を狙撃したという逸話がある信玄砲


江戸時代の物だが、側面に「SUY」と象嵌がある


 その他にも日本最古級などなど。
 その中で火薬に関する展示の中に、1172年に伊豆の島に見慣れぬものが上陸し、脇から火を出して一帯を焼き払った、という話しが記載されていたが、この出所が気になる。

武田勝頼合標


メインとなりうる長篠の戦いの展示がやや貧弱であるが、あくまで地域の歴史を網羅した展示だからだろうか。

一通り見ると昼食の時間。


豊川稲荷の前にある松屋という店の仕出しで、豊川らしく稲荷寿司を中心にした三河の産物を活かした素材で、仕出し弁当でありながら美味しい弁当であった。

 食後、たまたま入った図書室には私も講座の題材にしている督乗丸漂流の船頭・重吉の漂流の経緯を記した「船長日記」があり、読みたかったのですが残念ながら時間がありませんでした。

 幕末の開国交渉に携わった岩瀬忠震の冊子がありましたので購入。

 では、これから設楽原の古戦場へと向かう。
 鳥居強右衛門の勇気と忠義溢れる行動で長篠城は持ち堪え、5月18日、信長3万、家康8千の援軍は城の西方約4kmにある設楽原に到着して陣を築く。
 織田・徳川連合軍接近の知らせを受けた武田勝頼は軍議を開き、側近の長坂光堅・跡部勝資らが設楽原に出撃して決戦を主張、馬場信房ら信玄以来の重臣たちは兵力差から劣勢であるとして甲州への撤退を主張して対立した。
 勝頼は設楽原への出撃を決め、長篠城の押さえに約三千の兵を置き、主力一万二千の軍勢が設楽原へ向かった。設楽原の決戦場へ向かう前に馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次の武田四将が別れの水杯を交わしたという。

資料館がある付近には戦死者を死者を弔った塚があり、それを信玄塚と呼んだという。
信玄塚は二つあり、コチラは大塚。


そして小塚。

ちなみに、資料館のある住所も信玄原とある。平山氏は中学生の頃に親に頼み込んでココに連れて来て貰ったという。

 塚が出来てから、その付近から蜂が大発生して村人に被害を与えたため、蜂の大群を亡霊と考えてその慰霊の為に毎年八月十五日には火のついた大松明を振り回して乱舞する「ひおんどり」が行われるようになった。
 なんとなく、この話は高天神城の戦いによって生まれた遠州大念仏に近い話。

 信玄塚から歩いて3分ほどの原隼人佐昌胤の碑

 原昌胤は勝頼に撤退を進言したが受け入れられず、内藤昌豊らと共に徳川本隊を目指し、銃弾を浴びて討死にした。

 資料館がある信玄台地南部には山県昌景が布陣したと伝えられ、昌景や山県甚太郎昌次、従士・名取又左衛門、高坂又八郎らの墓碑がひっそりと建っている。



設楽原を望む。

設楽原とは言っても丘陵と谷の連なる起伏に富んだ地形である。
山県隊は開戦一番に突撃を開始、正面の徳川勢と激しく戦った隊である。平山氏によると、この日は草刈りが行われていて、徳川家康が布陣した丘が手に取るように見える。更に、家康と共に信長も居たそうである。距離は約200m程。「銃が構える正面に無謀にも突っ込んだ」とも言われるが、多少の損害が出ても敵方の首領を討ち取れば戦いは勝利である。この距離なら相手の表情も見えたかもしれない。それを考えると、単に無謀だったとも思えない。
そしてそんな敵方の間近に防御策を講じていたとはいえ、自らを囮にするような信長の胆力も凄い。

信玄台地から下りて家康の布陣する丘の途中の田の真ん中にある竹広激戦地という碑。


そこから西側にある中学校の正門前に「長篠役設楽原決戦場」の碑が建てられている。


登ると徳川勢が布陣して戦った戦場一帯が見渡せる。





家康が布陣した丘は弾正山と呼ばれ、元は古墳であったという。古墳を戦場で利用した例は大阪平野などであるが、ここにもあるとは。

 断上山から設楽原を北に向かうと、信長が武田の騎馬隊を防ぐために作った馬防柵が復元されている。




 この一画には「土屋昌次戦死之地」の碑が建つ。実は子孫に当たる人物が沼津に在住という事らしく、その方の所有している文書から山本勘助の実在が証明された事もあるそうだ。

 この馬防柵の近くでは銃を構えた甲冑姿の人が何人か。

 どうやら歴史系テレビ番組の収録らしい。平山氏は知り合いが居たみたいであった。

 この馬防柵から更に北側には織田方の佐久間信盛が陣した丸山という小高い丘がある。

 ここに馬場信房隊七百が鬼神の如く突撃、 佐久間隊は馬防柵内に撤退して迎撃の態勢をとった。この時、丸山を奪取した馬場信房は緒戦に勝利したとして勝頼に退却を勧めたと言われているが、勝頼はその意見を容れなかった。
 長篠の合戦は周知の通り、大量の火縄銃の攻撃に曝され歴戦の武将を多く失った武田勝頼は敗走。勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた馬場は反転して追撃の織田軍と戦い、『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期を遂げた。
 この戦いは武田氏を没落させ、織田・徳川の勢力を強大にした日本史上重大な意味を持つ戦いでした。

 この辺りからは上州産の硯が発見されており、武田方の真田信綱・昌輝兄弟が戦死した場所である事から、真田兄弟が引き連れた上州出身の兵が持っていた物である事を物語る。

 散策はここで終了。

 新東名も三月には豊田まで開通という事で、新城を始めとした奥三河もぐっと近くになります。

 バスが来て次の鳳来寺山に向かう前に、道の駅・もっくる新城に行きます。


 道の駅内の観光案内所は、神楽の時に飾られる切紙を用いたディスプレイ。

 奥三河が花祭を始めとした神楽が盛んである所です。

 この道の駅でお土産を物色してバスに戻ると、多くの人が酒類を購入したようで、車内の空気が一気にアルコール濃度が高くなった。
道の駅を出て、バスは鳳来寺山へ到着。車中にてバスガイドさんに鳳来寺の本堂へは山麓から伸びる石段が1425段あるので登る人は、というので登ってみたかったが、バス旅行なのでココは大人しくしておく。

来た道は無料であったが、かつては有料道路であった。その建設時の竣工碑。


参道を歩いて鳳来寺へ向かう。

非常に山深い所である。どこまでも山脈が続く様にも見えるが、長篠の町からそれほど離れてはいないのだ。


元々は足がすくむ様な断崖だったであろう。


11月半ばで紅葉を楽しみにしていたが、まだイマイチ。


この上に東照宮がある。


徳川家康の母・於大の方が鳳来寺山に参詣して家康を授かったという伝説を知った三代将軍・家光が鳳来寺山の大造営を図り、家康を祀る東照宮が新たに造営された。幕府から手篤い庇護を受け、かつては21の僧坊を誇ったという。

葵紋が誇らしい



日光・久能山と並ぶ三大東照宮の一社ということだが、両社に較べるとややこじんまりとしている。

こじんまりとしているものの、造営された当時の社殿や手水舎という事で重要文化財に指定されている。



この辺りは石垣が見事である。



東照宮から更に歩くと鳳来寺である。

来る途中で遠目に見えた、背後の荒々しい岩を従えているかのような鳳来寺山の山容が圧巻である。

 寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は文武天皇の病気平癒祈願を命じられて、霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。山には日本一高いとされる樹齢800年以上、樹高約60メートルの「傘杉」があるという。
 利修の加持祈祷からか、天皇は快復。この功によって伽藍が建立されたという。
 鳳凰に乗って参内したという伝承から、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。
 
 ここに寺を造ったのも驚きなのだが、更に上にも奥の院があるらしく、階段が延びていた。

 しかし、瓦の隙間から草が延びている・・・。これは傷みが相当なことになるだろう。
 鳳来寺は幕府の寺であった事もあって、火事にあっても再建には相当な時間が掛かったりと明治以後はかなり不遇であったのがまだ尾を引いているのだろうか。

 長篠城にも弓道の碑が建っていたが、ここには弓道関係者が祈願し奉納したであろう額が。


 駐車場に戻ると、やや陽は傾いてきた。

 ここでこのバス旅行は帰路に。個人的にバス旅行ってほとんどしませんが、こういった目的が明確なバス旅行なら良いかもしれません。

写真のみはコチラ  


Posted by かるの at 17:54Comments(0)視察・研修

2016年02月16日

2月14日ちゃらぽこ講演 「海越え、果つる地まで ~雄飛と絶望の移民史~」について参考文献

2月14日、散歩かふぇ ちゃらぽこにて「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 

 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「アメリカに生きた日本人移民: 日系一世の光と影/村山裕三」

 「日本人移民: ハワイ, 北米大陸/藤崎康夫, ‎山本耕二 」

 「サンダカン八番娼館/山崎朋子 」
 
 「静岡県と満州開拓団/櫻井規順」

 「ブラジルへ: 日本人移民物語/藤崎康夫 」
 

 
 ご参考にしてください。

※次回の散歩かふぇ ちゃらぽこでの講座は、3月13日15時から「天野芳太郎 太平洋を越える不死鳥」と題し、中南米で活躍した実業家・天野芳太郎の生涯についてお話します。  


Posted by かるの at 23:11Comments(0)歴史発見講座

2016年02月15日

2月13日講演 「幕府流転 天下相食む下剋上」について参考文献

2月13日、静岡市のくればにて「幕府流転 天下相食む下剋上」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 

 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「戦国期室町幕府と将軍/山田康弘」

 「戦国三好一族/今谷明」
 
 「関東戦国史(全)/千野原靖方」
 
 「続中世東国の支配構造/佐藤博信 」

 「戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦/福島克彦」

 「織田信長合戦全録 - 桶狭間から本能寺まで/谷口克広 」
 


ご参考にして下さい。


※次回のくればでの講座は3月12日14時~、「人の記憶 地の記憶 地震伝承を読む」と題し、過去の巨大地震を記録した日記や歴史的影響について歴史の観点からお話しします。  


Posted by かるの at 14:14Comments(0)歴史発見講座

2016年02月14日

本日講演 「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」 散歩かふぇ ちゃらぽこにて

  本日 15時より散歩かふぇ ちゃらぽこにて講演致します。

  内容は「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」です。


(第二次大戦中、アメリカ国内の日系人が強制収容された)


日本が開国を迎え諸外国との交流が始まると、多くの日本人が海外へと渡り懸命に働いた。遠い異国の地で成功を掴んだ者、絶望に打ちひしがれた者、悲喜交々の姿があった。
ハワイ、アメリカ、南米、満州・・・明治以後に国策として進められた移民の歴史を語ります。

 「明治時代・開拓・移民・プランテーション・近代史・人口論」に関心がある方にオススメ。

 会費:1500円(ドリンク付き)

 時間:15時から

 開催場所はコチラ・


 ※駐車場がありません。公共交通機関か近隣の駐車場をお使い下さい。


 申し込みはオーナーメール、もしくはちゃらぽこさんへ直接お願いします。

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


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2016年02月13日

本日講演 「幕府流転 天下相食む下剋上」 静岡市 くればにて

 本日14時より静岡市のシニアライフ支援センター「くれば」にて講演致します。

 内容は「幕府流転 天下相食む下剋上」です。


(足利将軍を凌ぐ権力を手にした三好長慶)


 室町時代末期、足利将軍の権威は失墜し、将軍ですらそれまでの部下に幕府を追い出される有様であった。それでも力を取り戻そうと、策を巡らし自ら戦場に赴く者も居た。
 華々しい戦国大名の活躍の陰で衰退しつつも、戦国時代の鍵を握っていた足利将軍の末期と、「天下人」と呼ばれた者たちの動向を語ります。

 「室町時代後期・下剋上・戦国時代・足利将軍に関心がある方におすすめ。」

 会費:500円

 開催場所はコチラ・静岡市両替町2丁目3-6大原ビル1F シニアライフ支援センター「くれば」
 


 参加は自由です。直接、来場してください。問い合わせはコチラから。054(252)8018
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 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました
  


Posted by かるの at 12:17Comments(0)歴史発見講座