no">
2015年09月25日
ホントに歩く東海道ウォーク 茅ヶ崎~大磯
※この記事は2014年9月の記事を再編集した物です。
お世話になっている「散歩かふぇ ちゃらぽこ」さんの企画「ホントに歩く東海道ウォーク 茅ヶ崎~大磯」に参加しました。
自分は街歩きをするに当たって街道筋は目安にしますが、街道を歩く事を目的としている訳では無いのもあって、東海道歩きは「品川~川崎・神奈川~藤沢・小田原~府中」など小間切れになっていました。
そこで、今回の企画は歩いていない茅ヶ崎~大磯を歩く企画という事で、参加です。

生憎の雨。そこそこ風も有る中、スタートです。

駅界隈は多少、歩いた事あります。
駅前から国道一号線に出て、ここから東海道を西へ進む。
観光案内所の前に居たキャラクター。

「えぼし麻呂」というらしい。茅ヶ崎に住む貴族だそうで、茅ヶ崎海岸沖の烏帽子岩からであろう。
樹齢200年超のクロマツ。

江戸時代の旅人もこの松を見たのであろう。
平成21年に枯死してしまったとか。
色々と話題になってる湘南クッキーの自販機

途中にあった竹細工の店

第六天神社

7月海の日に行われる浜降祭は、 神奈川県の民俗資料として無形文化財に指定され、茅ヶ崎海岸に近郷より三十数基神輿が集まる祭典との事。
三猿や道祖神の石碑

鉄工所のなかなかセンスある花壇が。

なかなか聞かないキャッチですね。

ナゾな落書き・・・ヘルメット?

南湖の左富士

左富士は富士市の吉原宿に向かう途中の所は知っていましたがココにも。
ココは富士山の真東に当たり、やや北西に向かう道となる事で「左」に富士がある。
南湖の左富士の側に鶴嶺八幡宮の鳥居。

東海道からはやや外れるが、八幡宮に向かう。
鶴嶺八幡宮へ向かう。

相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。また鶴嶺八幡宮によると、源氏が関東へ進出する際、創建した最初の氏社という。





普段は水が満たされている神池ですが、この日は全く無かったです。


見事な参道

この並木は江戸時代に朝恵上人という八幡宮別当の僧侶が、当地の地頭と共に整備したという。
女護ヶ石

女性の守護神として、この石を撫でた後、体の良くない部分を撫でると良くなるという。

神社には珍しい鐘が。

習合時代の名残か。
御神木としてのイチョウ


かわらけ投げ

この石に当てる

崖などの高い所や海などではかわらけ投げやった事ありますが、こんな近い距離は初めて見ました
拝殿

針塚

がん封じ石

ここも女護ヶ石の様に、この石を撫でた後、体の良くない部分を撫でると良くなるという。
こういった石も神社としては珍しい。
末社の淡島神社

女護ヶ石はこの淡島社の関係でしょうか。
鶴嶺八幡宮から再び東海道へ。
神明社

この神社の境内にある晴明井戸の碑

安倍晴明が東国に赴いた際、喉を潤した井戸があったという。
東海道名物・でかまん菓子舗さんへ

一番大きいのは30センチ弱

大きいから味も大味・・・と言う事は無く、丁寧なこしあん。美味しく頂きました。

他の種類のお菓子も購入しました。
国指定史跡・相模川橋脚跡

鎌倉時代の御家人・稲毛重成が架橋した。その際に源頼朝が渡り初めの時に落馬し、死亡する傷を作ってしまった曰くつきの場所である。
時は大正12年の関東大震災。地震により水田から鎌倉時代の橋脚が姿を現し、調査の結果、史跡に指定された。
史跡としての重要性に加え、関東大震災の地震状況を示す天然記念物としても重要な史跡である。
そして相模川を渡ると平塚市に。

この辺りから風雨が強くなり、全身ずぶぬれに。ツラい。
橋を越えた先に在る陸軍架橋記念碑

関東大震災によって橋が落橋し、交通が寸断された。9月17日に陸軍の工兵部隊により架橋工事が行われた。10月3日に完成し、その事績を讃えた碑である。
丁髷塚

1838年、寒川神社の神輿が春に大磯で行われる国府祭に渡御した帰りに、一ノ宮の寒川神社の氏子と四ノ宮の前鳥神社の氏子とが相模川の渡し場で争いを起こし、寒川神社の御輿が川に落ちて行方不明となった。
争いは裁判となり、代官・江川英龍は前鳥神社の氏子16名に打首断罪の判決を下したが、処刑の日に代官はその丁髷だけを斬り落とし、打首に代えたという。これが丁髷塚である。
一里塚跡

日本橋から15番目の一里塚。
たまたま通り掛かった所にあった乳業メーカー・守山乳業の工場

門のすぐ内側に、創業者らしい銅像が有ったので見てみる。


調べたところ、創業は1918年1月と90年以上の歴史を持つ老舗である。
大正9年12月には日本で初めてコーヒー牛乳を製造した会社でもある。

続けて国産初の無糖練乳の開発に成功するなど、革新的な製品展開で大躍進を遂げたという。
平塚駅周辺はちょうど七夕まつりであった。

話しには聞いていましたが、なかなか凄い飾り付け。
こんなキャラが。





お化け屋敷

夏にはやや早いですが、中から叫び声が聞こえてきました。
凄い賑わいでした。この賑わいの中にも、平塚町役場跡がありました。
脇本陣跡

脇本陣跡の近くにあった和菓子屋・安栄堂

大正5年の老舗。平塚最中を中心に、品揃えを絞っているものの、最中は美味でした。
高札場の跡

今は駅から西側で中心部とは言えない所でありますが、脇本陣跡などかつてはこの辺りが中心部だったか。
宝善院にて
日本最初の鉄道レール


この寺の檀家さんで鉄道好きの人が収集したものを寄進したそうである。
鎌倉時代の建久三年、鎌倉八幡宮寺に下向した京都・東寺の学問僧によって開山。
小田原北条氏の北条氏直は城内の守り本尊の虚空蔵菩薩を、落城寸前の城内から家来によって縁の宝善院に収めた。その名残か寺紋は「三つ鱗」である。

寺の外側の壁に、近寄ると経が流れるという。

テレビでも取り上げられたとか。
平塚宿京見付

宿場の西側の入り口。
京見付を過ぎると花水橋にて散歩かふぇの方が待っていたので休憩。
橋を渡れば大磯町に入る。
善福寺

親鸞聖人が度々相模国を訪れ、人々に念仏を勧めていた際、その教えを受けた平塚入道によって開基された寺。
平塚入道は曽我十郎祐成の子祐若 ( すけわか ) である。父の曽我十郎が仇討ちを遂げた後に生れた男子で、
成長して源実朝より平塚の荘を賜り、河津三郎信之と名乗った。
しかし、父・祖父いずれも悲運の最期を遂げた無常を感じ出家した。この時期、親鸞聖人もたびたび国府津を訪れており、平塚入道は聖人のもとを訪ね弟子となり「了源」という法名を賜り、母・虎御前の生地の近くであるこの地に草庵を結んだ。これが善福寺の創始である。
親鸞聖人の像

善福寺の境内に在る横穴群

善福寺の向かいにあった趣ある家屋


大磯のランドマーク?高麗山の麓にある高来神社へ。

神社には良く見られる力石

本殿へ参拝

高麗神社とも呼ばれる。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった。高麗寺は高句麗から渡来した高麗若光を祀った古い寺院と言われるが、室町時代には数度の戦火に見舞われ、廃寺寸前にまで追い込まれる。しかし江戸時代に徳川家が権現信仰のあるこの寺を上野寛永寺の末寺とし東照宮を置いたことから隆盛を取り戻した。しかし明治時代に入るとこのことが仇となり、徳川色を消し去りたい明治政府によってこの寺は廃寺とされ、廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され高麗神社だけが残った。高麗神社は明治時代に高来神社(たかくじんじゃ)と改名し現在に至っている。

参拝した後、神社の人が居たので朱印を受ける。すると、遠くの神社に行っているからか、色々と聞かれる。

高来神社を出て、しばらくすると大磯宿の名残が出てくる。
虚空蔵堂

高来神社がかつて高麗寺だった際、東照宮も配祀されていたため大名行列はここで下馬したという。
水車がある。

調べたら蕎麦屋の様である。
化粧井戸の跡

『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になった。その虎女が化粧をする際に使用した井戸の跡であるという。
虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を大磯の地で暮らした。
鎌倉時代頃の大磯の中心地はこの化粧井戸の辺りであった。
大磯八景の碑

明治40年、当時の大磯町長が大磯町内の名所八か所を選んで絵葉書にした。
その内の「化粧坂の夜雨」の碑
無人販売の枝豆を良く見た。

大磯駅近くのエリザベスサンダーホーム・沢田美喜記念館

沢田美喜は岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
記念館はもう閉まっていたため入れなかったが、沢田美喜が収集した隠れキリシタンの遺物があるというので、見てみたいものだ。
大磯駅の向こうに見える洋館。気になる。

大磯駅にてゴール。

解散前に駅近くの喫茶店で休憩。お疲れ様でした。
お世話になっている「散歩かふぇ ちゃらぽこ」さんの企画「ホントに歩く東海道ウォーク 茅ヶ崎~大磯」に参加しました。
自分は街歩きをするに当たって街道筋は目安にしますが、街道を歩く事を目的としている訳では無いのもあって、東海道歩きは「品川~川崎・神奈川~藤沢・小田原~府中」など小間切れになっていました。
そこで、今回の企画は歩いていない茅ヶ崎~大磯を歩く企画という事で、参加です。

生憎の雨。そこそこ風も有る中、スタートです。

駅界隈は多少、歩いた事あります。
駅前から国道一号線に出て、ここから東海道を西へ進む。
観光案内所の前に居たキャラクター。

「えぼし麻呂」というらしい。茅ヶ崎に住む貴族だそうで、茅ヶ崎海岸沖の烏帽子岩からであろう。
樹齢200年超のクロマツ。

江戸時代の旅人もこの松を見たのであろう。
平成21年に枯死してしまったとか。
色々と話題になってる湘南クッキーの自販機

途中にあった竹細工の店

第六天神社

7月海の日に行われる浜降祭は、 神奈川県の民俗資料として無形文化財に指定され、茅ヶ崎海岸に近郷より三十数基神輿が集まる祭典との事。
三猿や道祖神の石碑

鉄工所のなかなかセンスある花壇が。

なかなか聞かないキャッチですね。

ナゾな落書き・・・ヘルメット?

南湖の左富士

左富士は富士市の吉原宿に向かう途中の所は知っていましたがココにも。
ココは富士山の真東に当たり、やや北西に向かう道となる事で「左」に富士がある。
南湖の左富士の側に鶴嶺八幡宮の鳥居。

東海道からはやや外れるが、八幡宮に向かう。
鶴嶺八幡宮へ向かう。

相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。また鶴嶺八幡宮によると、源氏が関東へ進出する際、創建した最初の氏社という。





普段は水が満たされている神池ですが、この日は全く無かったです。


見事な参道

この並木は江戸時代に朝恵上人という八幡宮別当の僧侶が、当地の地頭と共に整備したという。
女護ヶ石

女性の守護神として、この石を撫でた後、体の良くない部分を撫でると良くなるという。

神社には珍しい鐘が。

習合時代の名残か。
御神木としてのイチョウ


かわらけ投げ

この石に当てる

崖などの高い所や海などではかわらけ投げやった事ありますが、こんな近い距離は初めて見ました
拝殿

針塚

がん封じ石

ここも女護ヶ石の様に、この石を撫でた後、体の良くない部分を撫でると良くなるという。
こういった石も神社としては珍しい。
末社の淡島神社

女護ヶ石はこの淡島社の関係でしょうか。
鶴嶺八幡宮から再び東海道へ。
神明社

この神社の境内にある晴明井戸の碑

安倍晴明が東国に赴いた際、喉を潤した井戸があったという。
東海道名物・でかまん菓子舗さんへ

一番大きいのは30センチ弱

大きいから味も大味・・・と言う事は無く、丁寧なこしあん。美味しく頂きました。

他の種類のお菓子も購入しました。
国指定史跡・相模川橋脚跡

鎌倉時代の御家人・稲毛重成が架橋した。その際に源頼朝が渡り初めの時に落馬し、死亡する傷を作ってしまった曰くつきの場所である。
時は大正12年の関東大震災。地震により水田から鎌倉時代の橋脚が姿を現し、調査の結果、史跡に指定された。
史跡としての重要性に加え、関東大震災の地震状況を示す天然記念物としても重要な史跡である。
そして相模川を渡ると平塚市に。

この辺りから風雨が強くなり、全身ずぶぬれに。ツラい。
橋を越えた先に在る陸軍架橋記念碑

関東大震災によって橋が落橋し、交通が寸断された。9月17日に陸軍の工兵部隊により架橋工事が行われた。10月3日に完成し、その事績を讃えた碑である。
丁髷塚

1838年、寒川神社の神輿が春に大磯で行われる国府祭に渡御した帰りに、一ノ宮の寒川神社の氏子と四ノ宮の前鳥神社の氏子とが相模川の渡し場で争いを起こし、寒川神社の御輿が川に落ちて行方不明となった。
争いは裁判となり、代官・江川英龍は前鳥神社の氏子16名に打首断罪の判決を下したが、処刑の日に代官はその丁髷だけを斬り落とし、打首に代えたという。これが丁髷塚である。
一里塚跡

日本橋から15番目の一里塚。
たまたま通り掛かった所にあった乳業メーカー・守山乳業の工場

門のすぐ内側に、創業者らしい銅像が有ったので見てみる。


調べたところ、創業は1918年1月と90年以上の歴史を持つ老舗である。
大正9年12月には日本で初めてコーヒー牛乳を製造した会社でもある。

続けて国産初の無糖練乳の開発に成功するなど、革新的な製品展開で大躍進を遂げたという。
平塚駅周辺はちょうど七夕まつりであった。

話しには聞いていましたが、なかなか凄い飾り付け。
こんなキャラが。





お化け屋敷

夏にはやや早いですが、中から叫び声が聞こえてきました。
凄い賑わいでした。この賑わいの中にも、平塚町役場跡がありました。
脇本陣跡

脇本陣跡の近くにあった和菓子屋・安栄堂

大正5年の老舗。平塚最中を中心に、品揃えを絞っているものの、最中は美味でした。
高札場の跡

今は駅から西側で中心部とは言えない所でありますが、脇本陣跡などかつてはこの辺りが中心部だったか。
宝善院にて
日本最初の鉄道レール


この寺の檀家さんで鉄道好きの人が収集したものを寄進したそうである。
鎌倉時代の建久三年、鎌倉八幡宮寺に下向した京都・東寺の学問僧によって開山。
小田原北条氏の北条氏直は城内の守り本尊の虚空蔵菩薩を、落城寸前の城内から家来によって縁の宝善院に収めた。その名残か寺紋は「三つ鱗」である。

寺の外側の壁に、近寄ると経が流れるという。

テレビでも取り上げられたとか。
平塚宿京見付

宿場の西側の入り口。
京見付を過ぎると花水橋にて散歩かふぇの方が待っていたので休憩。
橋を渡れば大磯町に入る。
善福寺

親鸞聖人が度々相模国を訪れ、人々に念仏を勧めていた際、その教えを受けた平塚入道によって開基された寺。
平塚入道は曽我十郎祐成の子祐若 ( すけわか ) である。父の曽我十郎が仇討ちを遂げた後に生れた男子で、
成長して源実朝より平塚の荘を賜り、河津三郎信之と名乗った。
しかし、父・祖父いずれも悲運の最期を遂げた無常を感じ出家した。この時期、親鸞聖人もたびたび国府津を訪れており、平塚入道は聖人のもとを訪ね弟子となり「了源」という法名を賜り、母・虎御前の生地の近くであるこの地に草庵を結んだ。これが善福寺の創始である。
親鸞聖人の像

善福寺の境内に在る横穴群

善福寺の向かいにあった趣ある家屋


大磯のランドマーク?高麗山の麓にある高来神社へ。

神社には良く見られる力石

本殿へ参拝

高麗神社とも呼ばれる。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった。高麗寺は高句麗から渡来した高麗若光を祀った古い寺院と言われるが、室町時代には数度の戦火に見舞われ、廃寺寸前にまで追い込まれる。しかし江戸時代に徳川家が権現信仰のあるこの寺を上野寛永寺の末寺とし東照宮を置いたことから隆盛を取り戻した。しかし明治時代に入るとこのことが仇となり、徳川色を消し去りたい明治政府によってこの寺は廃寺とされ、廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され高麗神社だけが残った。高麗神社は明治時代に高来神社(たかくじんじゃ)と改名し現在に至っている。

参拝した後、神社の人が居たので朱印を受ける。すると、遠くの神社に行っているからか、色々と聞かれる。

高来神社を出て、しばらくすると大磯宿の名残が出てくる。
虚空蔵堂

高来神社がかつて高麗寺だった際、東照宮も配祀されていたため大名行列はここで下馬したという。
水車がある。

調べたら蕎麦屋の様である。
化粧井戸の跡

『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になった。その虎女が化粧をする際に使用した井戸の跡であるという。
虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を大磯の地で暮らした。
鎌倉時代頃の大磯の中心地はこの化粧井戸の辺りであった。
大磯八景の碑

明治40年、当時の大磯町長が大磯町内の名所八か所を選んで絵葉書にした。
その内の「化粧坂の夜雨」の碑
無人販売の枝豆を良く見た。

大磯駅近くのエリザベスサンダーホーム・沢田美喜記念館

沢田美喜は岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
記念館はもう閉まっていたため入れなかったが、沢田美喜が収集した隠れキリシタンの遺物があるというので、見てみたいものだ。
大磯駅の向こうに見える洋館。気になる。

大磯駅にてゴール。

解散前に駅近くの喫茶店で休憩。お疲れ様でした。
Posted by かるの at 22:10│Comments(0)
│視察・研修