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2016年01月16日
横浜居留地を尋ねて
友人から横浜市にある「馬の博物館」の券を頂いたので、観に行く事にする。
「馬の博物館」は横浜市中区の根岸競馬記念公苑の敷地内にある馬に関連する文化資料を展示した博物館である。公益財団法人馬事文化財団が運営する施設で、日本中央競馬会の関連組織である。
当初、「馬の博物館」と聞いて思い付いたのは世田谷区の馬事公苑であったが、この根岸競馬記念公苑が在る所が、居留地の外国人による日本で初めて洋式競馬が開催された地である。
場所は根岸線山手駅を降りて15分ほど。山手駅周辺はすぐ手前の石川町までの賑やかさとは一転、閑静な住宅街という雰囲気である。
馬の博物館

今回の企画展は「歴史コミックと馬展」。もらったパンフレットには横山光輝氏の三国志。これに惹かれてやってきました。
ちょっと着いた時間が早いので、周辺を散策。
公苑内にポニーセンターがある。

厩舎には馬が。7頭の馬が飼育されている。

ポニーセンターと書かれているものの、サラブレッドや日本の在来馬も。

名前は失念したが、結構なレースに出場している馬も。


公園内は拡がる緑が気持ちいい。

元々は外国人居留地で始まった競馬場の馬場である。歩道が元々のコースであった様だが、そこそこ起伏がある。
敷地面積2万4800㎡ということで、横浜スタジアムとほぼ同じ位だが、モノが無いので広大に見える。
芝生で寝ころんでいる人や、ボール遊び、ランニングをしている人などが見られる。
横浜競馬場 一等馬見所

アメリカ人建築家J・H・モーガンによって設計され、1929年に竣工した。

高台の先には米軍の住宅地。明らかに建物の様式が違う。

この一帯は大戦後に米軍により接収され、現在も根岸住宅として残る。
一等馬見所と二等馬見所の2つの観客スタンド、および下見所(パドック)は、馬場よりも遅れて1981年に接収解除されたが、二等馬見所と下見所が1988年に老朽化のため解体された。

歴史的遺構にも関わらずツタまみれ。

一等馬見所は横浜競馬場の遺構として唯一現存する事から、2009年に経済産業省によって近代化産業遺産に指定された。だが、本格的な修復は返還以来施されておらず、事実上の放置状態である。2012年現在も侵入防止のために設けられたフェンスに囲われたままであり、具体的な修復・保存は計画されていないのが現状である。
では、馬の博物館へ。

博物館の中は撮影禁止でしたので、備忘録として展示内容をまとめます。
日本にはそれまで神社の神事として馬同士の競走はあったが、金銭を賭けるようなものではなかった。
日本で最初に洋式競馬が誕生したのが、この根岸台である。外国人居留地であった横浜には幾つか競馬場が出来たが、治安の悪化を懸念した江戸幕府は競馬場を1ヵ所にする事とし、1866年12月に根岸競馬場が完成した。
当初は治外法権の場として、外国人が出入りしていた競馬場だったが、1923(大正12)年に旧競馬法が施行され、日本人にも馬券が買えるようになった。
入場者は外国人のみであったが、後に日本人の参加も認められるようになった。
ただ、当時の金額で一枚20円という、現代に換算すると15~20万円に相当する高額なもので、あくまで貴族の社交場としてのという色彩が強いものだった。
西郷従道はミカン号という持ち馬に自ら騎乗してレースに参加した。
近代化の象徴として捉えられ、皇族もたびたび訪れた。1905年には明治天皇より下賜される「エンペラーズカップ」が創設された。これが現在の天皇賞である。
馬は5500万年前に先祖が現れ、人間が馬を家畜化したのは、今から約5000年前の中央アジアでのことだという。それが労働力としてなのか、肉を食べるために飼ったのかは、わからないらしい。
やがて人間と関わりを持つようになり、馬というのは最も人類史に影響を与えている動物ではないかと思う。移動・流通・農耕・畜産・食用・競技・軍事などなど。歴史を動かす重要な役割を果たしている。
馬の中でも最も生産頭数の多いサラブレッドは、17世紀にイギリスで、アジアから輸入されたオス馬に、イギリス在来のメス馬を掛け合わせ、以後200年かけて足の速い馬を選別して作られたものである。日本には明治時代に輸入された。
馬の骨格も多数展示されているが、現在のサラブレッドは筋肉の構造や骨格の耐久力を考えると、限界の体格であり、これ以上大型化はできないそうである。サラブレッドの美しさは、戦闘機やレーシングカーといった機能美と通じるのかもしれない。
日本の馬はサラブレッドのような大きなものではなく、木曽馬のような小型のものであり、荷物を運ぶに適した耐久力に優れたものであった。
日本では現在、こうした在来馬は現在約1800頭しか存在しない。自動車の普及により、労働力としての馬の需要が急激に低下したことが理由である。一方、ドイツなどは乗馬人口1700万人で、“自動車は馬の代用品”という考え方が未だに残っているのだという。
(確かカール・ベンツが自動車を発明した際、「もう馬を全部殺しても困らないぞ」と言ったそうだが。)
本企画展「歴史コミックと馬展」では、その名の通り数々の歴史コミックの中で馬がどのように描かれているかという企画であるが、その中でも横山光輝氏の作品が多い。それも「三国志」といえば、多くの人(中学生男子)に影響を与えた作品であろう。
ここで一緒に来ていた友人が「横光(横山光輝氏の略称)の描く馬は、走る時は前足が両方前に出ていて、歩く時は片足が上がってる」という指摘。
改めて見ると確かにそうだ!走る時に前足が両方前に出ていたら走れないよな・・・と思ったが、それを見て違和感を感じなかったというのは我々が馬に無知であったのと、横山光輝氏の画力によるものであろう。
「横光をDisりに来たのではない」
あと、人気作となった原哲夫氏の「花の慶次」に出てくる巨馬「松風」。これの等身大?と思わせるパネルがあったのだが、その迫力に子供が泣き叫んでいた。確かに怖い。人を踏み潰してるシーンだったらその子にとってはトラウマものであろう。
横浜や横須賀の港が見える事から、第二次大戦中の昭和18年に閉鎖された。更に終戦後は進駐軍の接収を受け、返還後の昭和48年に日本中央競馬会に払い下げられ、根岸競馬記念公苑ならびに『馬の博物館』として再生した。
一旦、昼食の為に出る。
昼食から戻り、再び馬の博物館へ。先程は見逃したミュージアムショップを覗く。馬に関連したアクセサリーやキーホルダー、書籍など、馬好きには堪らない品揃えであろう。
平家物語絵巻 鵯越えのクリアファイルがあったので購入。拙講座「平氏一門」のファイルにする。
開館前に行ったポニーセンターでは乗馬体験や、馬車の乗車時間があるので行ってみたが、馬車の乗車時間は過ぎてしまっていた。

多くの来場者が馬に跨り、人と馬との触れ合いの時間を楽しんでいた。

小学生位でもビシっと乗馬の衣装に身を固め、乗りこなしている姿も見られた。きっとお金持ちだろうなとゲスな勘繰り。
では、馬の博物館を出て歩く事にする。山手の居留地跡を巡る。
先程の米軍根岸住宅


老舗感のあるうどん屋さん。

お昼はここでも良かったかな~
西友寺という寺だが、お寺の鐘を設ける空間が無かったのか?無理やり感が。

山元町交差点から見えたなかなか優美な鉄橋。打越鉄橋というらしい。

昭和3年の竣工で、橋の下を走る道路はかつて路面電車が走っていたとか。
平成15年度に横浜市歴史的建造物に認定されている。
緑豊かである

久し振りに見た「ともしびゾーン」

たまたま調べたら、「ともしびゾーン」は2006年にすでに廃止されているとか。
この辺りから、家並みが高級になった気がする。
横浜共立学園高校



以前作成した講座の中で出て来た学校なので、現地確認できた。
集合住宅の窓柵もなんとなく趣がある。

ランドマークタワーが見えてきた

山手イタリア山庭園にある外交官の家

ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などをつとめた明治政府の外交官・内田定槌氏の邸宅。
建物は木造2階建て。塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残す。
正面の扉

窓

入場は無料なので、見学する。
一階には食堂や大小の客間など、来客を迎えるための部屋が配置されている。
一階の食堂

ちょうど百合の花の展示が行われており、館内は至る所に百合を使った装飾で美しいが、個人的に百合の香りは余り好きではないので、むせ返る程である。

食堂の暖炉



サンルーム


ステンドグラス

ここで二階に上がる。
2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいる。

これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀のイギリスで展開された美術工芸の改革運動であるアーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られるという。

これは、アメリカ人設計者・J.M.ガーディナーの嗜好か。
寝室のすぐ脇には浴室

各展示室では、建物の特徴やガーディナーの作品、外交官の暮らし等についての資料を展示している。

横浜市街地が一望である。

そもそもは、明治43年に東京・渋谷に建てられた。平成9年に内田定槌氏の孫にあたる宮入氏からこの館の寄贈を受けた横浜市は、山手イタリア山庭園に移築復元し一般公開した。同年には国の重要文化財に指定された。
付属棟の喫茶スペースで休憩。

ビールも行きたい気分ですが、横浜の地サイダーオリヅルサイダーで。

一息ついた後、外側から館を眺める。

庭園と調和しています。

同じ敷地のブラフ18番館

ブラフ18番館は、関東大震災後に山手町45番地に建てられた木造2階建の外国人住宅。戦後は天主公教横浜地区(現・カトリック横浜司教区)の所有となり、平成3年までカトリック山手教会の司祭館として使用されてきた。
1991年に横浜市が部材の寄付を受け、山手イタリア山庭園内に移築復元。1993年から一般公開されている。
館内は大正末期から昭和初期に掛けての震災復興期の外国人住宅の暮らしを再現。附属棟は貸しスペースとして市民に利用されている。
ただ、残念ながら時間が迫って来たので、この中には入らずに先に進む事にする。
イタリア山庭園を出て歩くと、横浜の市街地を望みながらとなる。この景色を活かしてカフェなどが点在している。
道路両脇の住宅も、真に邸宅と言うべきエリアである。
道沿いに在った建物。これも歴史が深そうだが、特に表示が無いのが残念。

カトリック山手教会

フェリス女学院中学校

どうやら改築中の様である。大学は山手教会の手前のようだ。
外国人居留地であった名残として、キリスト教関連施設が多い。
中には余り近付きたくないな・・・と思う所も。

ベーリック・ホール

べーリック・ホールは、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、昭和5年に設計された。
現存する戦前の山手外国人住宅の中では600坪の敷地を持つ最大規模の建物で、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、イスラム様式の流れをくむクワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など多彩な装飾をつけています。
内部も、広いリビングやパームルーム、和風の食堂、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復元されているなど、建築学的にも価値のある建物。
設計したのはアメリカ人建築家J.H.モーガン。モーガンは山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など、横浜に数多くの建築を残している。
第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、昭和31年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付され、平成12年まで寄宿舎として使用されていた。
建物について寄付を受けた横浜市は、復元・改修等の工事を経て、平成14年から建物と庭園を公開している。

エリスマン邸

エリスマン邸は、生糸貿易商社・シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられた。
設計は「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。
当時は約81坪の木造2階建て。屋根はスレート葺の白亜の洋館で、煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響も見られる。
1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームなどがあり、簡潔なデザインを再現しています。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計したもの。
昭和57年、マンション建築のため解体されたが、平成2年に現在地に再現された。
昔の厨房部分は、喫茶コーナーとして利用できる。

山手234番館

エリスマン邸の斜め前、山手本通沿いに建つ山手234番館は、関東大震災により横浜を離れた外国人に戻ってもらうための復興事業の一つとして、昭和2年頃に外国人向けの共同住宅として建設された。
設計者は、隣接する山手89-6番館(現えの木てい)と同じ朝香吉蔵です。
建設当時の施設は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられている。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえる。
第2次世界大戦後の米軍による接収などを経て、昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていたが、平成元年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得し、平成11年から一般公開している。
公衆電話

同じような形式の公衆電話が熱海にもあったような。

横浜山手聖公会

1863年、 横浜クライストチャーチ(英語集会)が関内に設立。英語集会は江戸時代の末に禁教令が緩和された直後にできた二つの伝統ある教会のひとつ。
1931年に現在の礼拝堂が竣工。設計はJ・H・モーガン。大谷石を使ったノルマン様式の聖堂である。
山手資料館

横浜開港当時の横浜や山手に関する資料を展示・公開している資料館。

建物は明治42年建立で、そもそもは北方村(現在の諏訪町)で牧場を営んでいた中澤氏の居宅として明治末期に本牧に建てられた屋敷の洋館部分だった。
幸いにも関東大震災を免れ、横浜市に現存している木造西洋館としては最古の建物。
戦後は一時期米軍に接収されていたが、昭和50年代に入ってマンションの建設のために取り壊されることになった。その時に隣接する当時の山手十番館のオーナーだった故本多正道氏が洋館部分を買い取り、1977年(昭和52年)、現在地に移築した。

屋外部分にも復元されたガス灯やグリーンベンチ、古い乳母車などの展示物がある。


山手資料館の前庭はバラ園として設えられており、隣接する山手十番館の間にビアガーデンが設けられ、非常に飲みたい誘惑である。
山手十番館

山手十番館は、明治百年祭を記念して昭和42年に開館した建物。今はレストランである。
カーネルスコーナーというマンション

この建物も昭和42年。景観に合せての建築であろうか。
横浜外国人墓地

19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られている。
1854年(嘉永7年)、横浜港に寄港していたアメリカ海軍の水兵ロバート・ウィリアムズが軍艦ミシシッピ号から誤って転落死し、ペリーはその埋葬地の用意を幕府に要求、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというペリーの意向を受け横浜村の増徳院の境内の一部にウィリアムズの墓が設置されたことに由来する。
その後も外国人死者がその付近に葬られ、1861年(文久元年)に外国人専用の墓地が定められた。
基本的に内部は非公開であるが、3月から12月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されているということで、当日は開いていた。
横浜外国人墓地資料館

埋葬されている人々の業績を紹介する資料館が併設されている。

石垣の積み方でブラフ積という。
ブラフ(BLUFF)とは崖や絶壁という意味で、この山手の高台の事である。確かに、今まで見て来た洋館にもブラフ〇〇館という名が付いていた。
そして、この積み方は煉瓦でも見る事があり、それはイギリス積と呼んでいたと思う。
ゲーテ座跡

ゲーテ座は、わが国初の本格的演劇場である。
居留外国人達の案を基に、フランス人建築家ポール・サルダの設計に基づき、 1870年(明治3年)に横浜居留地の68番地に建てられた。
その後、パブリックホールとして使用されたが、人々の「より広いパブリックホールの建築を」との運動が起こり、 1885年(明治18年)4月18日に現在の場所である港の見える丘公園近くに新たなホールが建設された。 当時の収容人員は350人だった。
この建物がゲーテ座と呼ばれるようになったのは、 1908年(明治41年)12月以降の事で、演劇・音楽会・講演会など、多種多様な目的に利用された。
当時の観客は外国人が主体であり日本人は少なかったものの、日本人観客の中には滝廉太郎や坪内逍遥、北村透谷に芥川龍之介、 大佛次郎などが居た。
ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、 詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という言葉がその命名の由来となっている。
港の見える丘公園

この一帯は開港当時、イギリス軍とフランス軍が駐屯していた場所で、明治8年に駐屯軍は撤退したが、跡地に領事館が建てられ、太平洋戦争後まで使用された。
敗戦により米軍に接収されたが、接収解除後に公園として、昭和36年から整備に入り、昭和37年5月に平野愛子の歌う「港が見える丘」の歌に因み、港の見える丘公園と命名された。
「港の見える丘公園」は漫画「ブラックジャック」でその地名を知った気がする。
多くの人がいわゆる「自撮り棒」で港を背景に撮影している。
港のクレーンが壮観であるが、全て赤白で景観に合ってないような。

Wikiには「予想していた綺麗な風景とは違うということで残念に思う人も多い」とあるが、本来の産業的な港はこういうものだと思う。だが夜景は綺麗そうだ。
公園の一角には大佛次郎の記念館も

昭和48年、遺族より横浜市に対して、図書や収集品等の遺品寄贈の申し入れがあり記念館建設となった。手前にあるゲーテ館に大佛次郎が来ていた、というのを見たが、その縁でしょうか。なんとなく鎌倉の人かなと思ったら、生まれは横浜。
あと、時代小説のイメージがありましたが、ノンフィクションや翻訳でフランスものが多いので、この記念館はフランスと大佛次郎をイメージした建築との事。
横浜市イギリス館

昭和12年に英国総領事公邸として建てられた。玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版が、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていた由緒を示している 。
鉄筋コンクリート2階建てで、主屋の1階の南側には西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスから芝生の庭につながっている。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓から庭や港を眺望できる。地下にはワインセラーもあり、東側につく付属屋は使用人の住居として使用されていた。
昭和44年に横浜市が取得し、1階ホールはコンサートに、2階集会室は会議等に利用されている。当初はイギリス領事館を改修して記念館とする計画もあったが、大佛はフランスに通じた作家であり、イギリス領事館は似つかわしくないという意見があったとか。
港の見える丘公園は横浜一のバラの名所との事

平成3年5月に横浜市の花がバラと制定された事を記念してオープンしたバラ園。約110種1300株のバラが咲いており、撮影している人も。

港の見える丘公園を後にし、山下公園方面へ。

横浜ボウリング発祥の碑

日本で最初のボウリング場は1861年に 長崎に出来たとされ、横浜においては3年後に この場所に開場した。
よって、この碑はあくまで横浜に於けるボウリング発祥の碑であり、日本発ではない事に注意。
横浜マリンタワーが見えてきた。

山下公園へ。

氷川丸を間近で見たのは初めて。

氷川丸は、日本郵船が昭和5年に竣工させた日本の貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。接客設備とサービスの優秀さによって太平洋を往来する著名人たちに愛用された。
戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、当時の日本の造船技術を今に伝え、また船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受けている。博物館船として公開されている。
噴水?


何らかのイベントがあったらしく、多くの人で賑わっている。

そんな中で気になったこの建物。インド水塔というそうだ。

イスラム教のモスクの中庭にある泉・ハウズを想起させるモニュメント。イスラム風、インド風、日本風が混在したデザインが特徴的で、横浜市認定歴史的建造物となっている。

関東大震災の犠牲者を弔う意味合いであるようだ。横浜で被災した在日インド人のため、横浜市民が被災インド人への住宅の手当てなどに力を注いだ横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために、在日インド人協会が山下公園内に建立した。

多くの犠牲者が水を求めて死んでいった事から、水が飲めるような造りになっている。
よくよく考えると、山下公園自体も関東大震災の復興事業として、瓦礫などで海を埋め立て造成して出来た公園である。この下には当時の人々の様子が分かる物が多く埋もれているのかもしれない。
山下公園から関内駅方面へ。横浜三塔が見えてきた。
神奈川県庁舎。三塔の内のキング

昭和3年10月31日に完成。この時代の公共建築にしては帝冠様式ではないのが、国際港である横浜の顔であった所だろうか。
平成8年に登録有形文化財(建造物)に登録された。
横浜港港湾労働者供養塔

港湾労働は現在の様な機械化される前は、着岸待ちの貨物船で混雑し、港湾労働者は通船で沖合に停泊中の貨物船で人力による長時間・重労働・危険作業の荷役作業を行っており、作業中に不慮の事故で亡くなる人が少なくなかった。港での仕事に生涯を捧げ、その発展に尽くした人々2822柱の御霊を慰めるため、1974年に建立された。
赤レンガ倉庫を傍目に歩く

横浜税関。三塔の内のクイーン。横浜市認定歴史的建造物である。

昭和9年に完成した庁舎は、シンボルと言える緑青色のドームが当初高さ47mで計画されていたが、「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき」との意見により4m高くされ、高さ51mとなった。。完成当時は横浜で最も高い建物であった。

「象の鼻パーク」であることからか

キングを別の角度から

日本郵船歴史博物館

元々は日本郵船横浜支店として昭和11年8月に竣工。
山下公園に係留されている氷川丸も日本郵船である。

パルテノン神殿を彷彿とさせる華麗な外観。大オーダーと呼ばれる、2階部分まで貫くコリント式の円柱が16本並んだ姿は実に壮観。
全景を撮れないのが残念。
旧富士銀行 横浜支店

昭和4年、安田銀行横浜支店として建てられた。安田銀行は大正末から昭和初期にかけて、ほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例。
平成17年からは東京芸術大学大学院映像研究科のキャンパスとして活用されている。
横浜市認定歴史的建造物。
神奈川県立歴史博物館

明治37年、横浜正金銀行本店として建築。
横浜正金銀行は、横浜開港以来、外国人商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年に設立。その後、外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、世界三大為替銀行の一つに数えられるようになる。
本建築はドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることがら、昭和44年には国の重要文化財の指定を受け、更に産業経済の発展に貢献した貿易金融機関の在り方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡にも指定されている。
横浜三塔に合わせて、神奈川県立歴史博物館を「エース」として「横浜四塔」とする場合もある。
個人的には拙講座でも取り上げている「澁澤敬三」が若き日に勤務していたと思うと感慨深い。
馬車道通りには「日本初の〇〇」が多すぎてキリが無い。
英国から来たガス灯

明治5年、日本で最初のガス灯が馬車道に灯されたことを記念して、英国シェフィールドパークに在ったガス灯を東京ガスの協力により設置したもの。
損保ジャパン日本興亜馬車道ビル

大正11年に旧川崎銀行横浜支店として竣工。翌年の関東大震災で被災するも、建物は隣接する横浜正金銀行本店と共に残った。
横浜市認定歴史的建造物。
(しかし金融系企業は合併した後の社名をもう少し考えて欲しい・・・)
横浜指路(しろ)教会

横浜指路教会は、明治7年に創建されたプロテスタント系の教会。明治の教会が関東大震災で倒壊し、新たに建てられたのが現在の教会。関東大震災を教訓してか構造は鉄筋コンクリート製である。
横浜は関東大震災や先の大戦による空襲、連合軍による接収などもあり、開港当時の建築が残っているとは言い難いが、近年の建築でも景観を合せている所など、かつての港町を感じさせてくれるのである。
他の写真はコチラ
「馬の博物館」は横浜市中区の根岸競馬記念公苑の敷地内にある馬に関連する文化資料を展示した博物館である。公益財団法人馬事文化財団が運営する施設で、日本中央競馬会の関連組織である。
当初、「馬の博物館」と聞いて思い付いたのは世田谷区の馬事公苑であったが、この根岸競馬記念公苑が在る所が、居留地の外国人による日本で初めて洋式競馬が開催された地である。
場所は根岸線山手駅を降りて15分ほど。山手駅周辺はすぐ手前の石川町までの賑やかさとは一転、閑静な住宅街という雰囲気である。
馬の博物館

今回の企画展は「歴史コミックと馬展」。もらったパンフレットには横山光輝氏の三国志。これに惹かれてやってきました。
ちょっと着いた時間が早いので、周辺を散策。
公苑内にポニーセンターがある。

厩舎には馬が。7頭の馬が飼育されている。

ポニーセンターと書かれているものの、サラブレッドや日本の在来馬も。

名前は失念したが、結構なレースに出場している馬も。


公園内は拡がる緑が気持ちいい。

元々は外国人居留地で始まった競馬場の馬場である。歩道が元々のコースであった様だが、そこそこ起伏がある。
敷地面積2万4800㎡ということで、横浜スタジアムとほぼ同じ位だが、モノが無いので広大に見える。
芝生で寝ころんでいる人や、ボール遊び、ランニングをしている人などが見られる。
横浜競馬場 一等馬見所

アメリカ人建築家J・H・モーガンによって設計され、1929年に竣工した。

高台の先には米軍の住宅地。明らかに建物の様式が違う。

この一帯は大戦後に米軍により接収され、現在も根岸住宅として残る。
一等馬見所と二等馬見所の2つの観客スタンド、および下見所(パドック)は、馬場よりも遅れて1981年に接収解除されたが、二等馬見所と下見所が1988年に老朽化のため解体された。

歴史的遺構にも関わらずツタまみれ。

一等馬見所は横浜競馬場の遺構として唯一現存する事から、2009年に経済産業省によって近代化産業遺産に指定された。だが、本格的な修復は返還以来施されておらず、事実上の放置状態である。2012年現在も侵入防止のために設けられたフェンスに囲われたままであり、具体的な修復・保存は計画されていないのが現状である。
では、馬の博物館へ。

博物館の中は撮影禁止でしたので、備忘録として展示内容をまとめます。
日本にはそれまで神社の神事として馬同士の競走はあったが、金銭を賭けるようなものではなかった。
日本で最初に洋式競馬が誕生したのが、この根岸台である。外国人居留地であった横浜には幾つか競馬場が出来たが、治安の悪化を懸念した江戸幕府は競馬場を1ヵ所にする事とし、1866年12月に根岸競馬場が完成した。
当初は治外法権の場として、外国人が出入りしていた競馬場だったが、1923(大正12)年に旧競馬法が施行され、日本人にも馬券が買えるようになった。
入場者は外国人のみであったが、後に日本人の参加も認められるようになった。
ただ、当時の金額で一枚20円という、現代に換算すると15~20万円に相当する高額なもので、あくまで貴族の社交場としてのという色彩が強いものだった。
西郷従道はミカン号という持ち馬に自ら騎乗してレースに参加した。
近代化の象徴として捉えられ、皇族もたびたび訪れた。1905年には明治天皇より下賜される「エンペラーズカップ」が創設された。これが現在の天皇賞である。
馬は5500万年前に先祖が現れ、人間が馬を家畜化したのは、今から約5000年前の中央アジアでのことだという。それが労働力としてなのか、肉を食べるために飼ったのかは、わからないらしい。
やがて人間と関わりを持つようになり、馬というのは最も人類史に影響を与えている動物ではないかと思う。移動・流通・農耕・畜産・食用・競技・軍事などなど。歴史を動かす重要な役割を果たしている。
馬の中でも最も生産頭数の多いサラブレッドは、17世紀にイギリスで、アジアから輸入されたオス馬に、イギリス在来のメス馬を掛け合わせ、以後200年かけて足の速い馬を選別して作られたものである。日本には明治時代に輸入された。
馬の骨格も多数展示されているが、現在のサラブレッドは筋肉の構造や骨格の耐久力を考えると、限界の体格であり、これ以上大型化はできないそうである。サラブレッドの美しさは、戦闘機やレーシングカーといった機能美と通じるのかもしれない。
日本の馬はサラブレッドのような大きなものではなく、木曽馬のような小型のものであり、荷物を運ぶに適した耐久力に優れたものであった。
日本では現在、こうした在来馬は現在約1800頭しか存在しない。自動車の普及により、労働力としての馬の需要が急激に低下したことが理由である。一方、ドイツなどは乗馬人口1700万人で、“自動車は馬の代用品”という考え方が未だに残っているのだという。
(確かカール・ベンツが自動車を発明した際、「もう馬を全部殺しても困らないぞ」と言ったそうだが。)
本企画展「歴史コミックと馬展」では、その名の通り数々の歴史コミックの中で馬がどのように描かれているかという企画であるが、その中でも横山光輝氏の作品が多い。それも「三国志」といえば、多くの人(中学生男子)に影響を与えた作品であろう。
ここで一緒に来ていた友人が「横光(横山光輝氏の略称)の描く馬は、走る時は前足が両方前に出ていて、歩く時は片足が上がってる」という指摘。
改めて見ると確かにそうだ!走る時に前足が両方前に出ていたら走れないよな・・・と思ったが、それを見て違和感を感じなかったというのは我々が馬に無知であったのと、横山光輝氏の画力によるものであろう。
「横光をDisりに来たのではない」
あと、人気作となった原哲夫氏の「花の慶次」に出てくる巨馬「松風」。これの等身大?と思わせるパネルがあったのだが、その迫力に子供が泣き叫んでいた。確かに怖い。人を踏み潰してるシーンだったらその子にとってはトラウマものであろう。
横浜や横須賀の港が見える事から、第二次大戦中の昭和18年に閉鎖された。更に終戦後は進駐軍の接収を受け、返還後の昭和48年に日本中央競馬会に払い下げられ、根岸競馬記念公苑ならびに『馬の博物館』として再生した。
一旦、昼食の為に出る。
昼食から戻り、再び馬の博物館へ。先程は見逃したミュージアムショップを覗く。馬に関連したアクセサリーやキーホルダー、書籍など、馬好きには堪らない品揃えであろう。
平家物語絵巻 鵯越えのクリアファイルがあったので購入。拙講座「平氏一門」のファイルにする。
開館前に行ったポニーセンターでは乗馬体験や、馬車の乗車時間があるので行ってみたが、馬車の乗車時間は過ぎてしまっていた。

多くの来場者が馬に跨り、人と馬との触れ合いの時間を楽しんでいた。

小学生位でもビシっと乗馬の衣装に身を固め、乗りこなしている姿も見られた。きっとお金持ちだろうなとゲスな勘繰り。
では、馬の博物館を出て歩く事にする。山手の居留地跡を巡る。
先程の米軍根岸住宅


老舗感のあるうどん屋さん。

お昼はここでも良かったかな~
西友寺という寺だが、お寺の鐘を設ける空間が無かったのか?無理やり感が。

山元町交差点から見えたなかなか優美な鉄橋。打越鉄橋というらしい。

昭和3年の竣工で、橋の下を走る道路はかつて路面電車が走っていたとか。
平成15年度に横浜市歴史的建造物に認定されている。
緑豊かである

久し振りに見た「ともしびゾーン」

たまたま調べたら、「ともしびゾーン」は2006年にすでに廃止されているとか。
この辺りから、家並みが高級になった気がする。
横浜共立学園高校



以前作成した講座の中で出て来た学校なので、現地確認できた。
集合住宅の窓柵もなんとなく趣がある。

ランドマークタワーが見えてきた

山手イタリア山庭園にある外交官の家

ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などをつとめた明治政府の外交官・内田定槌氏の邸宅。
建物は木造2階建て。塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残す。
正面の扉

窓

入場は無料なので、見学する。
一階には食堂や大小の客間など、来客を迎えるための部屋が配置されている。
一階の食堂

ちょうど百合の花の展示が行われており、館内は至る所に百合を使った装飾で美しいが、個人的に百合の香りは余り好きではないので、むせ返る程である。

食堂の暖炉



サンルーム


ステンドグラス

ここで二階に上がる。
2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいる。

これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀のイギリスで展開された美術工芸の改革運動であるアーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られるという。

これは、アメリカ人設計者・J.M.ガーディナーの嗜好か。
寝室のすぐ脇には浴室

各展示室では、建物の特徴やガーディナーの作品、外交官の暮らし等についての資料を展示している。

横浜市街地が一望である。

そもそもは、明治43年に東京・渋谷に建てられた。平成9年に内田定槌氏の孫にあたる宮入氏からこの館の寄贈を受けた横浜市は、山手イタリア山庭園に移築復元し一般公開した。同年には国の重要文化財に指定された。
付属棟の喫茶スペースで休憩。

ビールも行きたい気分ですが、横浜の地サイダーオリヅルサイダーで。

一息ついた後、外側から館を眺める。

庭園と調和しています。

同じ敷地のブラフ18番館

ブラフ18番館は、関東大震災後に山手町45番地に建てられた木造2階建の外国人住宅。戦後は天主公教横浜地区(現・カトリック横浜司教区)の所有となり、平成3年までカトリック山手教会の司祭館として使用されてきた。
1991年に横浜市が部材の寄付を受け、山手イタリア山庭園内に移築復元。1993年から一般公開されている。
館内は大正末期から昭和初期に掛けての震災復興期の外国人住宅の暮らしを再現。附属棟は貸しスペースとして市民に利用されている。
ただ、残念ながら時間が迫って来たので、この中には入らずに先に進む事にする。
イタリア山庭園を出て歩くと、横浜の市街地を望みながらとなる。この景色を活かしてカフェなどが点在している。
道路両脇の住宅も、真に邸宅と言うべきエリアである。
道沿いに在った建物。これも歴史が深そうだが、特に表示が無いのが残念。

カトリック山手教会

フェリス女学院中学校

どうやら改築中の様である。大学は山手教会の手前のようだ。
外国人居留地であった名残として、キリスト教関連施設が多い。
中には余り近付きたくないな・・・と思う所も。

ベーリック・ホール

べーリック・ホールは、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、昭和5年に設計された。
現存する戦前の山手外国人住宅の中では600坪の敷地を持つ最大規模の建物で、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、イスラム様式の流れをくむクワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など多彩な装飾をつけています。
内部も、広いリビングやパームルーム、和風の食堂、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復元されているなど、建築学的にも価値のある建物。
設計したのはアメリカ人建築家J.H.モーガン。モーガンは山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など、横浜に数多くの建築を残している。
第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、昭和31年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付され、平成12年まで寄宿舎として使用されていた。
建物について寄付を受けた横浜市は、復元・改修等の工事を経て、平成14年から建物と庭園を公開している。

エリスマン邸

エリスマン邸は、生糸貿易商社・シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられた。
設計は「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。
当時は約81坪の木造2階建て。屋根はスレート葺の白亜の洋館で、煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響も見られる。
1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームなどがあり、簡潔なデザインを再現しています。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計したもの。
昭和57年、マンション建築のため解体されたが、平成2年に現在地に再現された。
昔の厨房部分は、喫茶コーナーとして利用できる。

山手234番館

エリスマン邸の斜め前、山手本通沿いに建つ山手234番館は、関東大震災により横浜を離れた外国人に戻ってもらうための復興事業の一つとして、昭和2年頃に外国人向けの共同住宅として建設された。
設計者は、隣接する山手89-6番館(現えの木てい)と同じ朝香吉蔵です。
建設当時の施設は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられている。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえる。
第2次世界大戦後の米軍による接収などを経て、昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていたが、平成元年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得し、平成11年から一般公開している。
公衆電話

同じような形式の公衆電話が熱海にもあったような。

横浜山手聖公会

1863年、 横浜クライストチャーチ(英語集会)が関内に設立。英語集会は江戸時代の末に禁教令が緩和された直後にできた二つの伝統ある教会のひとつ。
1931年に現在の礼拝堂が竣工。設計はJ・H・モーガン。大谷石を使ったノルマン様式の聖堂である。
山手資料館

横浜開港当時の横浜や山手に関する資料を展示・公開している資料館。

建物は明治42年建立で、そもそもは北方村(現在の諏訪町)で牧場を営んでいた中澤氏の居宅として明治末期に本牧に建てられた屋敷の洋館部分だった。
幸いにも関東大震災を免れ、横浜市に現存している木造西洋館としては最古の建物。
戦後は一時期米軍に接収されていたが、昭和50年代に入ってマンションの建設のために取り壊されることになった。その時に隣接する当時の山手十番館のオーナーだった故本多正道氏が洋館部分を買い取り、1977年(昭和52年)、現在地に移築した。

屋外部分にも復元されたガス灯やグリーンベンチ、古い乳母車などの展示物がある。


山手資料館の前庭はバラ園として設えられており、隣接する山手十番館の間にビアガーデンが設けられ、非常に飲みたい誘惑である。
山手十番館

山手十番館は、明治百年祭を記念して昭和42年に開館した建物。今はレストランである。
カーネルスコーナーというマンション

この建物も昭和42年。景観に合せての建築であろうか。
横浜外国人墓地

19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られている。
1854年(嘉永7年)、横浜港に寄港していたアメリカ海軍の水兵ロバート・ウィリアムズが軍艦ミシシッピ号から誤って転落死し、ペリーはその埋葬地の用意を幕府に要求、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというペリーの意向を受け横浜村の増徳院の境内の一部にウィリアムズの墓が設置されたことに由来する。
その後も外国人死者がその付近に葬られ、1861年(文久元年)に外国人専用の墓地が定められた。
基本的に内部は非公開であるが、3月から12月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されているということで、当日は開いていた。
横浜外国人墓地資料館

埋葬されている人々の業績を紹介する資料館が併設されている。

石垣の積み方でブラフ積という。
ブラフ(BLUFF)とは崖や絶壁という意味で、この山手の高台の事である。確かに、今まで見て来た洋館にもブラフ〇〇館という名が付いていた。
そして、この積み方は煉瓦でも見る事があり、それはイギリス積と呼んでいたと思う。
ゲーテ座跡

ゲーテ座は、わが国初の本格的演劇場である。
居留外国人達の案を基に、フランス人建築家ポール・サルダの設計に基づき、 1870年(明治3年)に横浜居留地の68番地に建てられた。
その後、パブリックホールとして使用されたが、人々の「より広いパブリックホールの建築を」との運動が起こり、 1885年(明治18年)4月18日に現在の場所である港の見える丘公園近くに新たなホールが建設された。 当時の収容人員は350人だった。
この建物がゲーテ座と呼ばれるようになったのは、 1908年(明治41年)12月以降の事で、演劇・音楽会・講演会など、多種多様な目的に利用された。
当時の観客は外国人が主体であり日本人は少なかったものの、日本人観客の中には滝廉太郎や坪内逍遥、北村透谷に芥川龍之介、 大佛次郎などが居た。
ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、 詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という言葉がその命名の由来となっている。
港の見える丘公園

この一帯は開港当時、イギリス軍とフランス軍が駐屯していた場所で、明治8年に駐屯軍は撤退したが、跡地に領事館が建てられ、太平洋戦争後まで使用された。
敗戦により米軍に接収されたが、接収解除後に公園として、昭和36年から整備に入り、昭和37年5月に平野愛子の歌う「港が見える丘」の歌に因み、港の見える丘公園と命名された。
「港の見える丘公園」は漫画「ブラックジャック」でその地名を知った気がする。
多くの人がいわゆる「自撮り棒」で港を背景に撮影している。
港のクレーンが壮観であるが、全て赤白で景観に合ってないような。

Wikiには「予想していた綺麗な風景とは違うということで残念に思う人も多い」とあるが、本来の産業的な港はこういうものだと思う。だが夜景は綺麗そうだ。
公園の一角には大佛次郎の記念館も

昭和48年、遺族より横浜市に対して、図書や収集品等の遺品寄贈の申し入れがあり記念館建設となった。手前にあるゲーテ館に大佛次郎が来ていた、というのを見たが、その縁でしょうか。なんとなく鎌倉の人かなと思ったら、生まれは横浜。
あと、時代小説のイメージがありましたが、ノンフィクションや翻訳でフランスものが多いので、この記念館はフランスと大佛次郎をイメージした建築との事。
横浜市イギリス館

昭和12年に英国総領事公邸として建てられた。玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版が、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていた由緒を示している 。
鉄筋コンクリート2階建てで、主屋の1階の南側には西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスから芝生の庭につながっている。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓から庭や港を眺望できる。地下にはワインセラーもあり、東側につく付属屋は使用人の住居として使用されていた。
昭和44年に横浜市が取得し、1階ホールはコンサートに、2階集会室は会議等に利用されている。当初はイギリス領事館を改修して記念館とする計画もあったが、大佛はフランスに通じた作家であり、イギリス領事館は似つかわしくないという意見があったとか。
港の見える丘公園は横浜一のバラの名所との事

平成3年5月に横浜市の花がバラと制定された事を記念してオープンしたバラ園。約110種1300株のバラが咲いており、撮影している人も。

港の見える丘公園を後にし、山下公園方面へ。

横浜ボウリング発祥の碑

日本で最初のボウリング場は1861年に 長崎に出来たとされ、横浜においては3年後に この場所に開場した。
よって、この碑はあくまで横浜に於けるボウリング発祥の碑であり、日本発ではない事に注意。
横浜マリンタワーが見えてきた。

山下公園へ。

氷川丸を間近で見たのは初めて。

氷川丸は、日本郵船が昭和5年に竣工させた日本の貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。接客設備とサービスの優秀さによって太平洋を往来する著名人たちに愛用された。
戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、当時の日本の造船技術を今に伝え、また船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受けている。博物館船として公開されている。
噴水?


何らかのイベントがあったらしく、多くの人で賑わっている。

そんな中で気になったこの建物。インド水塔というそうだ。

イスラム教のモスクの中庭にある泉・ハウズを想起させるモニュメント。イスラム風、インド風、日本風が混在したデザインが特徴的で、横浜市認定歴史的建造物となっている。

関東大震災の犠牲者を弔う意味合いであるようだ。横浜で被災した在日インド人のため、横浜市民が被災インド人への住宅の手当てなどに力を注いだ横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために、在日インド人協会が山下公園内に建立した。

多くの犠牲者が水を求めて死んでいった事から、水が飲めるような造りになっている。
よくよく考えると、山下公園自体も関東大震災の復興事業として、瓦礫などで海を埋め立て造成して出来た公園である。この下には当時の人々の様子が分かる物が多く埋もれているのかもしれない。
山下公園から関内駅方面へ。横浜三塔が見えてきた。
神奈川県庁舎。三塔の内のキング

昭和3年10月31日に完成。この時代の公共建築にしては帝冠様式ではないのが、国際港である横浜の顔であった所だろうか。
平成8年に登録有形文化財(建造物)に登録された。
横浜港港湾労働者供養塔

港湾労働は現在の様な機械化される前は、着岸待ちの貨物船で混雑し、港湾労働者は通船で沖合に停泊中の貨物船で人力による長時間・重労働・危険作業の荷役作業を行っており、作業中に不慮の事故で亡くなる人が少なくなかった。港での仕事に生涯を捧げ、その発展に尽くした人々2822柱の御霊を慰めるため、1974年に建立された。
赤レンガ倉庫を傍目に歩く

横浜税関。三塔の内のクイーン。横浜市認定歴史的建造物である。

昭和9年に完成した庁舎は、シンボルと言える緑青色のドームが当初高さ47mで計画されていたが、「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき」との意見により4m高くされ、高さ51mとなった。。完成当時は横浜で最も高い建物であった。

「象の鼻パーク」であることからか

キングを別の角度から

日本郵船歴史博物館

元々は日本郵船横浜支店として昭和11年8月に竣工。
山下公園に係留されている氷川丸も日本郵船である。

パルテノン神殿を彷彿とさせる華麗な外観。大オーダーと呼ばれる、2階部分まで貫くコリント式の円柱が16本並んだ姿は実に壮観。
全景を撮れないのが残念。
旧富士銀行 横浜支店

昭和4年、安田銀行横浜支店として建てられた。安田銀行は大正末から昭和初期にかけて、ほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例。
平成17年からは東京芸術大学大学院映像研究科のキャンパスとして活用されている。
横浜市認定歴史的建造物。
神奈川県立歴史博物館

明治37年、横浜正金銀行本店として建築。
横浜正金銀行は、横浜開港以来、外国人商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年に設立。その後、外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、世界三大為替銀行の一つに数えられるようになる。
本建築はドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることがら、昭和44年には国の重要文化財の指定を受け、更に産業経済の発展に貢献した貿易金融機関の在り方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡にも指定されている。
横浜三塔に合わせて、神奈川県立歴史博物館を「エース」として「横浜四塔」とする場合もある。
個人的には拙講座でも取り上げている「澁澤敬三」が若き日に勤務していたと思うと感慨深い。
馬車道通りには「日本初の〇〇」が多すぎてキリが無い。
英国から来たガス灯

明治5年、日本で最初のガス灯が馬車道に灯されたことを記念して、英国シェフィールドパークに在ったガス灯を東京ガスの協力により設置したもの。
損保ジャパン日本興亜馬車道ビル

大正11年に旧川崎銀行横浜支店として竣工。翌年の関東大震災で被災するも、建物は隣接する横浜正金銀行本店と共に残った。
横浜市認定歴史的建造物。
(しかし金融系企業は合併した後の社名をもう少し考えて欲しい・・・)
横浜指路(しろ)教会

横浜指路教会は、明治7年に創建されたプロテスタント系の教会。明治の教会が関東大震災で倒壊し、新たに建てられたのが現在の教会。関東大震災を教訓してか構造は鉄筋コンクリート製である。
横浜は関東大震災や先の大戦による空襲、連合軍による接収などもあり、開港当時の建築が残っているとは言い難いが、近年の建築でも景観を合せている所など、かつての港町を感じさせてくれるのである。
他の写真はコチラ
Posted by かるの at 19:26│Comments(0)
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